伊賀上野城(白鳳城) TOPペ−ジへ戻る 地図案内 | |||
かつて、眺望の良いこの台地には平楽寺の伽藍が建立されていたが1581年(天正9)織田信長の侵攻を受け焼け落ちた。天正・伊賀の乱である。 1585年(天正13年)筒井定次(つつい さだつぐ、1562〜1615)が現天守閣の東に3層の天守閣を築いた。定次は従兄・筒井順慶(つつい じゅんけい、1549〜1584)の養子で伊賀上野20万石の領主となり1592年バリニャ−ノから受洗し、1600年関ヶ原の戦いでは家康に従って所領を安堵されたが1608年(慶長13年)改易され、その後西軍に通じていた事を疑われ1615年(慶長20年)自害した。 その後、1608年藤堂高虎(とうどう たかとら、1556〜1630)が伊予国から伊賀・伊勢32万石の領主となって入国した。高虎は大坂夏の陣(1615年)で真田幸村に討たれそうになった家康を救った猛将。高虎は筒井氏の天守の西に高石垣や天守を築いた。西側の壮大な石垣は豊臣方に備えたものだと言われ、高石垣は全国でも指折りの高さを誇っている。しかし、1612年9月2日竣工間近の5層天守は暴風雨で倒壊、その後徳川政権が成立すると自由に築城できなくなり天守の再建は行われなかった。 現在の伊賀上野城は1935年(昭和10年)地元の代議士・川崎克(かわさき かつ、1880〜1949)が私財を投じて再建したもので当時は「伊賀文化産業城」と名付けられ、鉄筋コンクリ−ト洋式は採らず桃山形式の木造建築洋式で落成した。川崎克は1940年全ての政党を解散させて成立した大政翼賛会は憲法違反だとして激しく追求した。日本法律学校(日本大学)卒、衆議院議員当選11回。 |
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藤堂高虎座像 | |||
西側に 豊臣家を意識して高石垣を設けた | |||
天守閣からの遠望 鎌ヶ岳と御在所岳 | 天守閣からの遠望 青山高原の風車群 | ||
上行寺(三重県伊賀市上野寺市1165) | 藤堂家の菩提寺 藤堂高虎の墓石 上行寺(じょうぎょうじ) | ||
念仏寺(三重県伊賀市上野寺市1152) 無縁墓の墓石はざっと数えて数千基以上 | 念仏寺 樹齢200年以上の枝垂れ桜の巨木 | ||
上野天満宮(菅原神社)。 菅原神社の歴史は更に古いが、藤堂高虎による城下町建設に際して伊賀の城郭鎮守として奉遷された(伊賀市上野東町2929)。 | 上野天満宮 (伊賀市役所のサイト) |
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菅原神社の古い歴史を伝える樹齢1000年と言われるけやきの巨木 |