安福寺(京都府木津川市)       地図案内TOPへ戻る
 
 
 安福寺(あんぷくじ)の開基は『往生要集』の著者・恵心僧都。南都攻撃(1181年)の総大将 平重衡(たいらの しげひら、1157〜1185)が斬首された時の引導仏とされる「阿弥陀仏如来座像」が寺の本尊で、本堂は「哀堂」(あわんどう)と呼ばれる。一ノ谷の合戦で捕えられた後、鎌倉で源頼朝の尋問に「南都焼き討ちの全責任は自分にある」と述べる重衡の潔い態度に頼朝は深い感銘を受けたという。しかし、焼き討ちに激しいうらみを持つ南都仏教勢の要求で奈良の手前まで引き戻され木津川付近の当地で斬首された。新興勢力の平家と頑強に反抗する既成の宗教勢力との対決は不可避で、信長の比叡山焼き討ちにも共通するものがある。重衡は東大寺や興福寺を焼き、平家滅亡(1185年、壇ノ浦)に直面するなど波瀾に満ちた僅か28年の人生だった。容姿は清らか知性と深い教養の人で多くの女性に慕われたという。重衡は平清盛(1118〜1181)の五男で母は平時子(たいらの ときこ1126〜1185)。
 
 時子の弟の時忠(ときただ、1127〜1189、清盛の義弟)は「平家にあらずんば人にあらず」と高言したが平家滅亡後に頼朝の命で能登に流された。奥州に逃れる義経は能登で時忠と再会したという伝承が伝わる。その後、源氏は滅んだが時忠は生き抜きその子・
時国の時に平家の家名を捨てて時国家(ときくにけ、石川県輪島市)とし800年後の現代へと繋がっている。観光地になっている時国家(外部サイト)の屋敷は現存する近世民家で国内最大級という。
   
  不成柿(ならずがき)と首洗池(くびあらいいけ)。重衡がこの世の最後の名残にと食べた柿の種が成長したものとされるが、現在の木は代替わりしている。普段は実が出来ないのに戦争などの争いが起こると実がなったという。現在の木は毎年結実する。首洗池で斬首された重衡の首を洗ったとされる。  
   『平家』(池宮彰一カ、角川書店)
・・・・・
 知盛、資盛らが近江から美濃、尾張と転戦している頃、奈良興福寺の大衆(だいしゅ、僧侶・宗徒)がこぞって蜂起した。興福寺は、先の以仁王(もちひとおう)の叛乱に際しても、園城寺(えんじょうじ)に逃げ込んだ王を南都に迎えようとするなど、反平家の旗幟(きし)を鮮明にしていた。興福寺は藤原氏の氏寺であったため、摂政基通は使者を送ってこれを宥(なだ)めようとした。しかし、逆上した南都の大衆は、この使者を辱め追い返す始末をあえて行った。
 南都との対決はもはや避けられぬ状況となった。反平家の九条兼実(くじょうかねざね)などは、南都の僧と叡山の僧がこぞって上洛し、平家を討伐するらしいなどと、願望の混った臆測を述べている。
 事ここに至って、清盛も動いた。備中の住人、瀬尾兼康(せのおかねやす)という武者を南都の検非違所(けびいしょ)に遣わし、騒動を鎮めようとした。清盛は宗徒に対する狼藉を戒め、武器を用いぬよう兼康らに指示した。だが、
興福寺の大衆は兼康配下の者を襲い、六十余人の首を斬った。
 十二月二十五日、忍耐の緒を切った清盛は、 ついに追討使を派遣する事を決断した。大将軍には頭中将 重衡(とうのちゅうじょう しげひら)、副将軍には中宮亮 通盛(ちゅぐうのすけ みちもり)を任命した。京の公家は興福寺が焼亡するだろうと噂し、戦慄した。
 今度の進発に際し、清盛は、あえて兵士の心得を布告しなかった。万事に周到な清盛にしては,前例のないことであった。
これは「思うがままに誅伐(ちゅうばつ)せよ」の意味であろう。
重衡以下はそう受け取った。

 三日後の二十八日昼下がり、
京の人々は南方の空に立ち上がる黒い煙を目にした。
  京から奈良までの距離はおよそ七里半(約三十キロ)だったが,南都の諸寺を焼き払う煙は、遙かな都からも望見できた。その煙の下では,東大寺の大仏殿を始め,多数の伽藍が紅蓮の炎に包まれていた。興福寺では小房二棟を残し、三十八の建物が焼け落ちた。東大寺でも,辛うじて残ったのは正倉院の倉だけだった。
 焼亡したのは堂舎だけではない。興福寺東金堂(とうこんどう)の釈迦像、西金堂(さいこんどう)の観世音像(かんぜおんぞう)など,多くの仏像が煙と化し,法相宗(ほっそうしゅう)、三論宗(さんろんしゅう)の法文・経典も一巻残らず烏有(うゆう)に帰した。東大寺の毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ、大仏)は、頭が焼け落ちて大地に転がり,胴体は溶けて小山のようになった。
 さらに『平家物語』によれば,焼死した僧侶、稚児(ちご)の数は三千五百,戦場で討ち死にした大衆は一千とある。もっともこれは大袈裟で,比較的信のおける資料『玉葉』(ぎょくよう、九条兼実の1164年から1200年に及ぶ日記)と『山塊記』では、梟首(きょうしゅ)された僧の数を、前者は三十余人、後者は四十九人と記している。
 いずれにしても興福寺との抗争は、南都の滅亡という結末を迎え、園城寺の滅亡と合わせて反平家の宗教勢力は一掃された。・・・
・・
 平重衡の墓とされる「十三重石塔」