笠置   TOPへ戻る
 
「行宮遺址」 1331年8月27日から一ヶ月余、後醍醐天皇の仮皇居が笠置山山頂に置かれたのを記念して1889年有志により、中腹にあった高さ7.6m、幅6mの自然石を刻んだ彰仁親王揮毫による記念碑が中腹に置かれた。 一文字は136cm四方。石碑は山の下からも良く見える。
 彰仁親王(あきひと、小松宮彰仁親王、1846〜1903)は皇族も率先して軍務に就くべきと考え、日清戦争では旅順に出征した。1902年イギリス国王・エドワ−ド7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席。日本赤十字社総裁などを務め、皇族としての在り方を探求した。 
 
「後醍醐天皇行在所跡」 1331年8月27日京都御所からこの笠置山に逃れた後醍醐天皇(1288〜1339)の仮皇居跡。天皇方の守り2500、北条方の軍勢は75000と伝えられる。9月28日風雨の中を北条方50名が奇襲攻撃を決行した。一ヶ月余の攻防で笠置山の49ヶ寺は全て灰燼に帰した。天皇親政を理想と考える後醍醐天皇を中心とする勢力が起こしたこの鎌倉幕府倒幕運動を元弘の乱(げんこうのらん、げんこうのへん)と言う。
  後に鎌倉幕府が倒れて(1333年)、後醍醐天皇の「建武の新政」(建武の中興)に繋がったが、武士への恩賞が少なかった事から足利高氏(尊氏)が離反して、やがて室町幕府の成立に到った。そして、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝(吉野朝廷)を建て尊氏や北朝と対立し、子の後村上天皇に譲位した翌日没した。歴史を感じさせる史跡である。 
 
 
 
 
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巨岩への仏像彫刻は664年という が過去3回の火災で巨岩の表面が焼かれてしまった。2009年(平成21年)特殊カメラによる探査でかつての姿が窺えるようになった。
 
  
 
 
 
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