『日本百名山』(深田久弥、新潮文庫)
立山はわが国で最も早く開かれた山の一つである。縁起によれば、大宝元年(七〇一年)佐伯有若(さえきのありわか)が在任中、その子の有頼が自鷹(しらたか)を追うて立山の奥深く入り、弥陀三尊の姿に接して随喜渇仰し、慈興と号して立山大権現を建立したという。
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こういうかずかずの古い由緒を持つ立山も、現在では一変して近代的な観光地になりつつある。ケーブルカーが通じ、新しい自動車道が開かれ、旅舎があちこちに建つて、もはや人々は労せずして都会の服装のまま、高山の気に接しられるようになつた。聞くところによれば、近くその山腹にトンネルが穿たれて、黒部の谷へ観光道路がつくそうである。お山まいりの立山は消え、登山の対象としての立山も消え、 一途に繁華な山上遊園地化に進んでいるふうにみえる。
立山は、私がその頂を一番数多く踏んだ山の一つである。中でも頂上の雄山神社の社務所に泊めて貰つて、早暁、日の出を拝した時の印象は忘れられない。四方の山々が雲海の上に眼ざめるように浮び上ってくるのを眺めながら、やはり立山は天下の名峰であることを疑わなかつた。
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『日本百名山』(深田久弥、新潮文庫)
薬師岳は,白馬や槍のような流行の山ではないが、その重量感のあるドッシリした山容は,北アルプス中随一である。ただのっそりと大きいだけではない。厳とした気品もそなえている。
立山の弥陀ヶ原まで上ってきて、まず眼を惹くのはこの薬師岳だろう。南北に長い山の背を、弥陀ヶ原からは縦に望むことになるので、山の形が引緊まって、堂々とした貫禄のある山にみえる。そのヴォリュームの大きさを満喫するには、雲ノ平から望めばいい。ここからはその長大な尾根を、値打ち通り横から眺めることになる。全く呆れるくらい巨大な壁が眼路の正面を扼している。
私が初めて薬師岳へ向ったのは、私が大学一年生、連れは一高生の熊谷太三郎君、二人でテントをかついで出かけた。熊谷君は現在熊谷組の社長である。当時は立山行の電車は千垣までしか通じていなかった。千垣で一泊して、そこから和田川に沿って登ること七里、もうつ飛騨境に近い高原に有峰と呼ぶ村があった。昔はここが薬師岳の登山口であつた。しかし私が行った時にはすでに廃村になっていた。村人は水力電気会社に祖先以来の地を売って、金をふところに山を下った後で、軒が破れ柱の傾いた廃屋が点々としていた。草むらの中に崩れた墓の並んでいるのも哀れであった。
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その後、私は薬師岳の頂上に二度立った。 一度は立山温泉から五色ヶ原を経て、尾根伝いに行った。越中沢山を越えて、薬師の稜線に取りかかってから頂上までが、実に長かった。この厖大な山は、行けども行けども、頂上はなおその先にあった。やっと頂に達したが、それは薬師北峰と呼ばれるもので、本峰までそれからまた大きな岩のゴロゴロした長い道のりを行かねばならなかった。
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それから先は白い砂礫のザクザクした尾根で、右手には黒部の谷を距てて雲ノ平の大きな台地を望み、左手には有峰のダム瑚が覗かれる。稜線と言うより斜面と言いたいくらい幅の広い尾根であるから、もし吹雪かれて視界を失うと、かつての愛知大学の大量遭難のようなこともおこるのである。頂上に近づくと、右手に大きなカールが眼下に口をあけていて、その内壁の縞が美しい。もう昔の祠は無くなり、宝剣の破片も片づけられて、新しい小さな祠が岩の間に祀られていた。
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