竹生島    滋賀県長浜市早崎町   地図案内        
 竹生島(ちくぶじま)は 古来神がいつく島 とされ、当時民衆の熱狂的な支持を得ていた行基(ぎょうき、668〜749)が四天王像を安置してから竹生島信仰が広まった。行基は多数の信者を得て橋や道路を作ったので民衆を惑わす者として朝廷から禁圧されたが後に菩薩とあがめられ聖武天皇からも帰依されて724年に宝厳寺(ほうごんじ)を開創した。
 
 宝厳寺のモチの木は片桐且元(かたぎり かつもと1556〜1615)が伏見城から都久夫須麻神社(つくぶすま  じんじゃ)の本殿などを移築する工事を担当した折に自ら植えたと言われ400年を経て巨木に成長した。且元は賤ヶ岳の七本槍の一人で太閤検地や朝鮮出兵で活躍し秀吉の死後、秀頼の補佐役となった。方広寺鐘銘事件(1614年)では徳川と豊臣の対立を避けるために、秀頼が大坂城を出る事、淀殿が江戸に常住する事(人質の扱い)、秀頼が駿府と江戸へ参勤する事の三つの内一つを受け入れるという提案をして徳川家との密通を疑われ、大坂の陣(1615年)では徳川方に与した。
 
 
   
 
片桐且元お手植えのモチの木(この上の1枚は長浜観光協会提供) 
 
 
あちこちに見られる巨木
   
参道横の椎   説明板はなかったが手許の巻き尺では幹周6m 
 
 
 
琵琶湖八景    沸きたつ夏雲と長く伸びる航跡が竹生島にはよく似合う。
 
 
唐門は国宝 。京都東山の豊国廟の正門・極楽門を移築したという。
 
 
 船廊下は秀吉の御座船の骨組みを利用して作られている。宝厳寺と都久夫須麻神社を連絡する。重要文化財。
都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)は延喜式神名帳にも記載されている古社でこの本殿は国宝。 伏見城の殿舎を移築した。
 
宝厳寺本堂(弁才天堂) 重要文化財   行基が738年(天平10年)に弁財天を安置した事から竹生島信仰が広まった。西国三十三観音霊場第三十番札所。日本三大弁才天の一つ。
 
 
  竹生島は大きな花崗岩の塊で宝厳寺本堂までは165段の階段がある。