丸岡城         地図案内
   
   
 
現存天守12城の一つである丸岡城天守閣から望む丸岡町
 本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ、1529〜1596)は家康が置いた岡崎三奉行の一人である。重次は今日、明日の運命が知れぬ戦場にあった。長篠の戦いの陣中から、妻宛てに「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という、家庭を気遣う有名な手紙を送った。お仙は長子・仙千代(成重)である。この時代は多くの将兵や無数の農民が肉親や家庭を思いながら死んで行った。
 
 その重次の長子・成重(なりしげ、1572〜1647、幼名は仙千代、お仙)は福井藩主松平忠直の補佐役として越前丸岡藩主(本多家としては初代)に就いた。成重はかつて秀康(1574〜1607、家康の次男、結城秀康、徳川秀康、松平秀康)が秀吉の養子(人質)として大坂へ送られた時に随伴した。
 後に、秀康は秀忠の兄であり武将としての器量もあり幕臣の中から第二代将軍として、秀忠ではなく秀康を推挙する声もあったという。
 

  徳川家康と言えば豪放磊落、泰然自若を思うが、それは天下人になってからのこと。今川氏への苦難に満ちた服属から脱した家康を待っていたのは、三河の一向一揆(1563年)、三方ヶ原の戦い(1573年、武田信玄×信長・家康連合軍)、長篠の戦い(1575年、武田勝頼×信長・家康連合軍)であった。三方ヶ原の戦いでは大敗を喫し必死で自陣へ逃げ帰った日もあった。そんな家康と運命を共にし、江戸幕府樹立に献身した徳川四天王が本多忠勝(ただかつ、1548〜1610、50回以上の出陣で負傷しなかったという猛将)、酒井忠次、榊原康政、井伊直政である。その忠勝に長子・忠政(ただまさ、1575〜1631、大坂冬・夏の陣で勇戦、姫路城修築)、その長子・忠刻(ただとき、1596〜1626、秀頼と別れた千姫の再婚相手、姫路城主)がいる。本多正信(まさのぶ、1538〜1616)、その長子・正純(まさずみ、1565〜1637、大阪城総堀埋め立て、家康の葬儀や日光東照宮造営の指揮)は家康、秀忠の側近を務めて幕政を担った。江戸時代初期に一族は大いに栄えた。

ご案内 丸岡城に関する参考資料 福井県史