首里城        次のペ-ジへ      TOPへ戻る
 
 
 首里城(しゅりじょう)は約450年間続いた琉球王国(1429年~1879年)のシンボルで1945年沖縄戦で焼失したが、1972年沖縄本土復帰を記念して復元事業が始まり1992年11月3日に正殿や北殿等ができあがった。正殿(せいでん)は琉球王国最大の木造建築で豪華な彫刻が施されて、獅子(しし)、金龍(きんりゅう)、火焰宝珠(かえんほうじゅ)、大蟇股(だいかえるまた)、瑞雲(ずいうん)、牡丹唐草(ぼたんからくさ)の彫刻が美しかった。寺院の屋根のような曲線を描く唐破風(からはふう)の日本式建築様式と中国の伝統的建築様式が折衷され、国殿(こくでん)とも百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とも称された。
 正殿前左には正殿大龍柱(吽形)(せいでんだいりゅうちゅううんぎょう)、右に正殿大龍柱(阿形)(せいでんだいりゅうちゅうあぎょう)が設置された。共に高さ4.1m(龍柱3.1m、台座1m)。
 沖縄の心、沖縄の象徴と最高の賛辞で語られ2000年には世界遺産に登録された首里城だったが2019年10月31日正殿など7棟を焼失してしまった。
 首里城は1453年、1660年、1709年、1945年にも焼失し、その都度再建されてきた。
  右手が正殿、向こうが北殿(ほくでん)。北殿には多くの官吏が集まって重要事項を審議した中枢機関が置かれ、時には来琉した中国皇帝からの冊封師(さっぽうし、使者)を迎える儀式が執り行われた。
 1853年ペリ-提督が首里城を訪問。
 1872年明治政府は琉球国を廃止して琉球藩設置。琉球藩はこれまで通り日清両属を嘆願した。
 1879年3月末、政府のたびたびの命令に従わなかった琉球藩主・尚泰(しょうたい、1843~1901)は武力行使を受け、首里城を明け渡して琉球藩はなくなり沖縄県となった。最後の琉球国王・尚泰は東京へ連行されて500年の歴史を持つ琉球国は崩壊したが華族(侯爵)に列せられ、分家も男爵に叙せられるなど破格の経済的優遇を受けた。
「琉球処分」と呼ばれる。
 2000年「九州・沖縄サミット」社交夕食会が開催された。


写真は最後の琉球国王・尚泰(国立国会図書館デジタルコレクション)

 
 
 
  
中央に国王の玉座である御差床(うさすか)が置かれ儀式や祝宴が行われた。左右には子や孫が座る平御差床(ひらうさすか)があった。  14世紀の沖縄本島は北部、中部、南部に分かれていて(三山時代)首里城は中部の中山(ちゅうざん)国が王城としていた。1429年尚巴志(しょうはし、1372~1439)が三山を統一して琉球王国を建国し首里城を整備した。
 
 正面は歓会門(見学入り口)、右は久慶門(見学出口)
 
小高い丘の上にある 首里城からの展望