千種街道(千種越え、千草越え、ちくさかいどう、ちぐさかいどう)は、かつては杉峠(1042m)を越えて近江国愛知郡と伊勢国桑名方面を結ぶ重要な商業ル−トで多くの商人や旅人が行き来した。街道としての役目は終えているが歴史街道として、或いは鈴鹿山系の中では登山ル−トが長いことで知られる雨乞岳(あまごいだけ、1238m)への登山道として知られる。千草街道に足跡を残した人に浄土真宗中興の祖・蓮如上人や戦国の覇者・織田信長らがいる。何らかの絶景が見られるわけでもないのに千草街道や杉峠の名が今なお広く知れ渡っているのはこれらの事情から。甲津畑駐車場から杉峠までは片道3時間半のロングル−ト。TOPへ戻る
千種街道の最高所・ 杉峠(1042m、滋賀県東近江市甲津畑町)※標高は『滋賀県の山』(山と渓谷社)に拠った。右向こうは日本二百名山の御在所岳(1212m)で直線距離にして約2km。地図案内  蓮如上人受難
   
 「蓮如上人御旧跡」  比叡山の圧迫を避けるためにこの付近にあった炭竃に隠れて難を逃れたという記録がある。古井戸が残る。
 
 「杉谷善住坊のかくれ岩」 1570年4月25日信長は朝倉討滅を目指して越前に侵攻、しかし背後から浅井にそむかれ挟み撃ちに陥った。危険なしんがりを秀吉に命じ僅かな手勢を率いて敦賀から若狭街道を経て京都へ逃れた。5月19日信長は京都から領国の岐阜へ帰途を急いでいた。関ヶ原を通るべきであったが主要道は浅井勢に封鎖され、1042mの杉峠があるこの険しい山岳道を越さねばならなかった。しかし、ここでも浅井勢が信長の命を狙っていた。付近の鉄砲名人として知られる善住坊(ぜんじゅうぼう、杉谷善住坊、?〜1573年、近江杉谷又は伊勢杉谷の人とされる)に20m余の至近距離から銃撃されたが、放たれた二発の銃弾は信長に致命傷を与えることはなかった。善住坊は徹底探索の末、三年後に探し出され、のこぎり挽きに処せられたと『信長公記(しんちょうこうき)』は伝える。