真言宗智山派智積院   京都市東山区東瓦町964 地図案内  TOPへ戻る
   
 真言宗智山派智積院(しんごんしゅうちさんは ちしゃくいん)は檀信徒30万、3000の末寺を擁し、その中に成田山新勝寺、川崎大師などがある。
 真言宗は 空海(弘法大師、774〜835)によって開宗されたが弘法大師入定(にゅうじょう、入滅)後300年程経った平安末期には加持祈祷を重視するなど開宗時の教えが薄れ宗勢は衰微していた。覚鑁(かくばん、興教大師、1095〜1144、真義真言宗の祖)上人はこれを良しとせず高野山を去り根来寺(ねごろじ、紀州和歌山県)に移った。根来寺は盛時に坊舎2700余、僧侶6000、所領70万石を誇った。しかし、鉄砲で武装する強力な僧兵を持った根来寺は豊臣秀吉の攻撃を受け全山焼き払われた。根来寺学頭(最高指導者)の玄侑(げんゆう)僧正は高野山や京都へと逃れていたが時代は変わり、徳川家康が秀吉の愛児で夭折した鶴松の菩提寺として建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)を智積院・能化(のうけ、住職)に寄進した。以後「五百仏山根来寺智積院」(いおぶさんねごろじちしゃくん)と称して現在に続いている。
 

 
錦秋の「楓図」は等伯  爛漫と咲き誇る「桜図」は久蔵 25才の作
 
 
書院造りに見られる違い棚(ちがいだな)に「松と立葵図」 
 
  日本の障壁画を代表する豪華絢爛、雄渾華麗に描かれた長谷川等伯(はせがわとうはく)とその子・久蔵(きゅうぞう、1568〜1593)の障壁画。 久蔵も桃山時代を代表する画家で「朝比奈草摺曳図」(あさひなくさびきず)や「大原行幸図」(外部サイト)が知られているが惜しくも26才で早逝した。
 秀吉も感嘆したと思われる等伯らが揮毫した原画は収蔵庫で公開されているが撮影不可。でも、その精密な複製画が大書院(おおしょいん)で公開され撮影できるのは弘法の恵み。名画はどのように撮影しても美しく映える。 
 桃山時代の代表的芸術を堪能できるのは菩薩の位。