華厳宗大本山東大寺   仏教、歴史、造形美の宝庫    TOPへ戻る
 東大寺大仏殿(正しくは東大寺金堂、とうだいじこんどう)は世界最大級の木造建築で、平重衡による治承の兵火(1180年、南都焼き討ち)、松永久秀と三好三人衆らが戦った永禄の兵火(1567年)で大きな被害を受けたがその都度、俊乗房重源や公慶(こうけい)らの尽力で修復された。現在の大仏殿は正面約57m、奥行き約50m、高さは48m、瓦は12万枚であるが、特に創建時や鎌倉時代の大仏殿の正面は88mで今よりも1.5倍も広かった。江戸時代に再建資金や巨木が不足したからという。
 聖武天皇は天然痘、飢饉や人々の争いを仏教思想でおさめることを祈願して743年「大仏造立の詔」を発した。749年大仏鋳造は完了し、752年4月9日インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が筆をとって開眼した。この時、聖武太上天皇や光明皇太后、娘の孝謙天皇、多くの朝廷役人、僧侶らが菩提僊那の筆から伸びる約200mの綱を握りしめた。参列者は10000余人という。
 盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ、又は盧舎那仏、毘盧遮那(びるしゃなぶつ))は高さ約15m、顔の幅約3.2m、手の大きさ約2.5m、蓮弁含めて500トン。
 人民と国の繁栄を願うという天皇の思いで着手した国家事業だったが大仏殿や大仏の完成に9年の歳月を要し、怪我人や病人を支える社会保障がない労働環境下で人々は多くの犠牲を強いられ塗炭の苦しみにあえいだ。
 
 
滅多に見られない観相窓の開扉 
 
 
 
 
 
752年大仏創建時に設置された金堂八角灯籠は日本最古最大で繊細な工芸美術を伝える。音声菩薩(おんじょうぼさつ)の浮き彫り文様が見られる。殆どの人は気付かずに通り過ぎる。 国宝。
 
 
 
東大寺南大門  国宝
 
 東大寺南大門は平安時代に強風で倒壊し、現在の南大門は鎌倉時代に再建された日本最大の門である。南大門は1199年に上棟され1203年には高さ8.4mの金剛力士像(仁王像)も安置された。大仏様(だいぶつよう、かつては天竺様とも)の建築様式が採用され、貫(ぬき)という水平方向の材木をたくさん使って柱と柱を組み合わせる頑丈な構造になっている。屋根の高さは25.46m。長さ21m、直径1mの大円柱18本が建物を支える。天井がないので見上げると木材構造の美しさを鑑賞することができる。南大門、金剛力士像は共に国宝。
東側で口を閉じているのが吽形(うんぎょう)、西側で口を開いているのが阿形(あぎょう)。 
運慶、快慶、定覚、湛慶ら20数名の仏師が69日間で完成させたと言われる。 国宝  
 
 2023年若草山焼き (7枚を合成)  奈良県の花火師と300人の奈良市消防団員が担当した。
 
 お水取り(修二会)  3月12日深夜に閼加井(あかいや)で水を汲み上げることからこの名がついた。大仏開眼が成された天平勝宝4年(752年)から、幾度も繰り返された戦乱など天変地異を乗り越えて一度も絶えることなく令和5年(2023年)で1272回目になる。
 
 
 
 
 
 
 
東大寺南大門の南側6本の柱の左から3本目の基壇から30cm位に、1567年(永禄10年)松永久秀と三好三人衆らが東大寺付近で戦った時の物とされる弾丸が残っている。 
 参考になる外部サイト(奈良県 )
 
写真中央下から30cm位の小さな穴。
 
東大寺第14第別当(長官)に就任した空海が草庵を結んで自作の地蔵菩薩石像を安置した空海寺 。空海が東大寺別当に就いたのは、国家鎮護をうたう東大寺の存在をより強固にしたい朝廷の思惑が働いたからという。  華厳宗の総本山・東大寺では1000年以上にわたって毎朝、真言密教系の『理趣経』(りしゅきょう)が読誦(どくじゅ)されてきた。 地図案内(空海寺)
 
 
 
 
 
南都焼き討ちで大規模な被害を受けた東大寺の再建に尽くした俊乗房重源の墓 
 
地図案内 (上が俊乗房重源の墓  下が嶋左近の墓石)
 
1600年関ヶ原の戦いで勇名を馳せた嶋左近。 石碑の一つ左が嶋左近の墓石 。  
 
 
三笠霊園         左の大きな茂みの下に嶋左近、右の樹木の下に重源の墓 
 
なら瑠璃絵 (奈良春日野国際フォ−ラム甍 庭園)