吉野山      秀吉も家康も心奪われた天下の絶景          TOPへ戻る    地図案内
      花矢倉(上千本)からの大展望    
 
  桜が見頃を迎える4月11、12日吉野山の金峯山寺蔵王堂に鎮座する本尊・蔵王権現に桜の満開を報告する花供懺法会(はなくせんぽうえ、花供会式)は1000年の歴史を持つ。10時に十万石の格式を持つ奴(やっこ)行列に続き山の僧侶、山伏、信徒、子供の行列が竹林院から蔵王堂まで練り歩き、法要の後には千本づきでついた餅をまく。役行者が感得した蔵王権現の姿を桜の木に刻んだことで桜がご神木となり人々から献木されてきた。歴史の深さに加えて爛漫と咲き誇る桜の絢爛豪華な姿を味わえる。

  1594年秀吉は愛妾や徳川家康、伊達政宗、前田利家らの蒼々たる大名に加え名だたる歌人、連歌師達5000名を引き連れて花見にやって来た。吉野では皮肉にも 3日間の長雨が続いた。激怒した秀吉が同行していた聖護院の僧・道澄を呼び出して、全山に火を放って下山すると罵声を浴びせると卒倒するまでに恐愕した道澄は全山の僧に夜を徹して必死の読経と願掛けを命じた。すると、翌日はからりとした晴天に恵まれ秀吉らの前に桜の大展望が現れた。 秀吉は盛大な歌会、茶会や能会を楽しみ吉野で数日を過ごし天下に権勢を示して下山した。足軽から天下人にまで上り詰めて日本一の出世男と言われた秀吉が没する(1598年)4年前の歴史に残る
太閤花見である。
                                                                 年月を心にかけし吉野山 花のさかりを今日みつるかな(太閤 秀吉)

 全山見渡す限り爛漫と咲き誇る桜は圧巻。 至る所で立ち止まって花の世界に陶酔する人あり、詩歌を吟ずる人あり、吉野に来る人は花に酔う。  
世界遺産  紀伊山地の霊場と参詣道
 
 

   
   
ご案内 明治以降の風景を伝える写真集
   
 吉野山は、三重・奈良・和歌山県にまたがり多くの史跡と文化財を持つ吉野熊野国立公園1936年指定)の北端に位置する。吉野熊野国立公園は大普賢岳、弥山、釈迦ヶ岳など山岳宗教に因んだ名を持つ峻険な峰々と深い谷から成る独自の山岳景観を形成する。2004年、吉野山・高野山から熊野への霊場と参詣道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された。
 
 吉野山の桜の歴史は役小角(えんのおづぬ、634?〜706?、通称は役行者(えんのぎょうじゃ、或いは、役優婆塞(えんのうばそく))に始まる。
呪術者だったとされる役小角は大和葛城山(金剛山・葛城山)に住んでいたが、699年には人を惑わすと訴えられ伊豆に流されたとされる。『日本霊異記』は真言密教の呪法をおさめ、神仙術をおこなう人物だったと伝える。平安中期以降、山岳宗教の修験道しゅげんどう)とむすびつき修験道の開祖とされた。1799年、光格天皇は役行者に神変大菩薩の諡号(しごう)を贈った。伝説的な要素も色々と加えられてきた人である。

吉野の峰深く踏み行って山上ヶ岳で、衆生を救う千日荒行を行っていた役行者の前に先ず弥勒菩薩が、次に千手観音が現れたが、これらの優しい仏では衆生の苦しみは救われぬと更に苦行を続けるや最後に大山鳴動して忿怒(ふんぬ)の強面をした蔵王権現が出現した。役小角は感得した蔵王権現の御影(みえい)を山桜の木に彫って山上ヶ岳の寺(今の大峰山寺、おおみねさんじ)と吉野山の蔵王堂(今の金峰山寺、きんぷせんじ)に祀った。ここから山桜は神木とされ、以後多くの人々が山桜の苗木を吉野に献木して蔵王権現に祈る風習が生まれた。吉野の桜は江戸時代に広まったソメイヨシノではなく、開花と当時に葉が出るシロヤマザクラが主である。
 奈良時代には東大寺初代別当・良弁689774、ろうべん、金鐘行者)が東大寺大仏の鍍金のため金を探査するなど鉱物資源に恵まれた山とされ、山上が岳を中心にした山岳地帯は「金峰山(きんぷさん)」と呼ばれた。   
 この時代は、社会基盤の充実に欠かせない鉱物資源の確保が重要な国家目標であった。668年、越後国から燃える水と土が献上されたという記述が『日本書紀』に見える。674年、銀が対馬国から産出した。708年、武蔵国で銅が発見されたのを機に「和銅」と改元、746年陸奥国から黄金が出たのを機に「天平感宝」と改元された。国内での産金をひたすらに願っていた朝廷の喜びが伝わる。701年、対馬国で金が産出したというので「大宝」(金のこと)と改元されたが、後にこれは対馬産金ではなく朝鮮から入手された事が露呈した。                                                                                 

 1300年もの桜の歴史を持つ吉野には文人墨客、時の天下人や武将達の残した秀歌が伝わる。
 672年、大津の都にあった大海人皇子は出家して吉野山に隠棲、その後、壬申の乱に勝利した。

    よきひとのよしとよくみて よしといひし よしのよくみよ よきひとよくみつ(大海人皇子、後の天武天皇)

     

        み吉野の山辺に咲ける桜花 雪かとのみぞあやまたれける  (紀友則)
 ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ で知られる紀友則(845?907?)は紀貫之と従兄弟。これが、吉野の桜が歌われた初見とされる。

        白雪の降りしくときはみ吉野の  山下風に花ぞ散りける        (紀貫之)

 


 花の歌人と言われた西行法師(1118-1190)は吉野に庵を組み数年過ごしたと伝わる。
    吉野山こずえの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき(西行法師) 

 

 1185年、頼朝に追われた義経は吉野に隠棲したが、やがて追っ手が迫り奥州の藤原秀衡を頼って吉野を去った。義経と愛妾・静御前の今生の別れであった。
      吉野山峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき(静御前)
      しづやしづしづのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな(静御前)



 1336
年、足利尊氏に都を追われた後醍醐天皇は蔵王堂の南にあった吉水院を行在所(あんざいしょ)とした。1347年、天皇の忠臣・楠木正成(まさしげ)の子・楠木正行(くすのき まさつら)は河内・四条畷で の幕府軍との戦闘に際して、如意輪堂の扉に鏃(やじり)で辞世の句を残して出陣して壮烈な戦死をとげ、間もなく吉野の主要な寺院は灰燼と化した。
      返らじと兼ねて思えば梓弓なき数にいる名をぞとどむる (楠木正行)
     玉骨はたとひ南山の苔に埋るとも、魂魄(こんぱく)は常に北厥(ほっけつ)の天を望まんと思ふ(後醍醐天皇)
 


 1594年、豊臣秀吉は徳川家康や伊達政宗らの武将・公卿ら5000人を従えて花の吉野に旅した。馬や犬にも美しい衣を掛けにぎやかな出で立ちだったという。所が3日経っても天気は晴れず、激怒した秀吉は天気 が回復しなければ全山に火を放って下山すると日本最初の修験道の本山である聖護院の道澄に言いつけた。翌日、晴天祈願が通じたのか天下人の逆鱗が通じたのであろうか、天気はからりと晴れ上がり花の下で は絢爛たる花見の宴や句会が繰り広げられた。花見が行われた所は「豊太閤花見塚」として伝わる
       年月を心にかけし吉野山 花のさかりを今日みつるかな(豊臣秀吉) 
    1590年全国統一、1592年朝鮮出兵、1598年醍醐の花見、その5ヶ月後に秀吉没。露と落ち露と消えにしわが身かな なにはの事も夢のまた夢
 尾張中村(名古屋市)の貧しい身分に生まれ武士を志して16歳で家を出て、日本一出世した男と言われる秀吉の贅を尽くした花見であった。
      千早振る神の恵みにかなひてぞ 今日み吉野の花を見るかな(前田利家)
      君が代は千年の春も吉野山 花にちぎりの限りあらじな(徳川家康)



         よし野にて桜見せふぞ檜の木笠 ()(松尾芭蕉)
            さ  まざまなこと思い出す桜かな          (松尾芭蕉
       歌書よりも軍書に悲し吉野山  (各務支考) 

 1772年、国学者・本居宣長は、吉野の花見と大和の旧跡・御陵などの考証の為に5人の供を連れて大和へ旅した。父が吉野水分神社で宣誓してくれたために生まれた子守明神の授け子であるとの思いも強いお礼 参りであった。宣長は生涯に三度、吉野水分神社に詣でた。
       父母のむかし思へば袖ぬれぬ 水分山に雨は降らねど(本居宣長)
        しき島のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山桜花(本居宣長)

  

  秋の七草の一つであるクズは、マメ科のつる性の多年草で非常に繁茂力が強い。根からは葛粉や漢方薬が作られる。吉野葛は、吉野で修行する山伏達が葛粉を食料品として持ち歩いたものである。又、葛の根の皮を干した物は発汗作用や鎮痛作用があるので葛根湯の原料とされている。かつて、修験者らは吉野葛を故郷へ持ち帰ったので吉野葛が全国に広がった。

 上千本の花矢倉から見下ろすと眼下には桜に彩られた峰が広がり山道が伸びている。その道筋には何カ所もの絶景ポイントがあるが、今来た道を振り返るとそこにも花の回廊が広がっている。
 
吉野山の花見を一日だけの日程で終えてしまうのは余りにも惜しい。吉野を隅々まで味わうには二日必要。これ程までに訪れる人を酔わせる桜の名所は滅多にない。