越前市  国府の余韻漂う古都      越前・若狭紀行
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  紫式部公園寝殿造庭園で平安の雅びを伝える。紫式部は越前国司に叙任された父・藤原為時と共に越前に下向した。(越前市東千福町)  
 奈良時代、中臣宅守(なかとみのやかもり)は奈良の都で別れて暮らす妻の蔵部女嬬(くらべにょじゅ)・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)と熱烈な恋心を込めた短歌をやり取りし味真野で暮らした。    
 俵万智中学2年の時に越前市(武生、たけふ)に転校して来て多感な娘時代を送った。     
  今の福井県敦賀付近から新潟県信濃川付近までかつては越(こし)と呼ばれていたが、7世紀後半(689〜692年頃)、都に近い方から越前、越中、越後に分立され、更に越前から能登(718年、奈良時代)と加賀(823年、平安時代)が分立した。主因は、国府(旧・武生市)から各地までの往き来に余りにも日数がかかり政治的に連絡・統制が十分とれないことであった。朝廷から派遣された国司が政治を行う国府が置かれたのはこの越前市(旧・武生市)であった。旧・武生市に置かれた国府は加賀・能登までを含んで越前と言われた時代の国府であった。正確な国庁(役所)の場所ははっきりしないが市街地の建設工事の際に奈良・平安時代の遺物が発掘された。旧・武生市内には古寺院が多く国分寺、御霊神社、総社もあって古い時代が偲ばれ、ここが越前国の古都であることを感じさせる。2005年10月1日には武生市と今立町が合併して越前市が誕生した。
 壊滅的な大被害を与えた福井大地震や戦災を免れた幸運にも恵まれて、これだけ多くの寺院を維持するだけの豊かな信心、余裕、落ち着いた雰囲気、道を尋ねればとことん教えてくれる人情の厚さもある。古い歴史の余韻漂う越前国の古都である。
 粟田部には佐々木小次郎の最有力の生誕伝承地として知られる高善寺継体天皇に関わる史跡が残る。

  国分寺、国府の国衙(役所)、紫式部が996年から1年余りを過ごした国司館など何れも市内のどこかにあったか特定できていない。かつての由緒ある風景を取り戻す努力が行われているが、越前国の国府でありながら、近代化を急いだせいか誇りうる歴史が見えにくくなってしまったというのは寂しい。
 かつて、司馬遼太郎(1923〜1996)は「
関心のある土地へゆくと、かならず国府の跡か国分寺のあとへ行くことが癖になっている。奈良朝の頃に国分寺が建てられた時、ふつう国府を離れること一五、六町ということになっていた。」と言いながら越の国府が置かれた名邑(めいゆう)・武生を訪れた。 しかし、1959年に始まった下水道計画により水路は暗渠になり武生の顔だった名物の松並木は消滅していて「運河が流れていて両岸に柳の並木がならんでいた見事な風情がなくなりただの埃っぽい町になった。」(『街道を行く』)と述べて日野山を見ながら感慨にふけり足早に立ち去った。
  京都府は景観を守るために建築物の高さ規制を行うなどの努力をしてr歴史を大切にして、1兆3700億円もの購買・消費をする8500万人(2018年)もの旅人を受け入れている。歴史を肌で感じさせてくれる町に人は惹かれる。

ご案内参考資料 福井県史図説「原始古代17 紫式部の見た越前」(外部サイト)      福井県史 紫式部

 越前打刃物は、南北朝時代に京都・粟田口の刀匠だった千代鶴国安が府中(旧・武生市)にやって来て鍛冶の条件に恵まれていることから定住して、刀剣などを製作しながら農具用鎌も作り、その技術を府中の人々に伝えたのに始まるという言い伝えがある。ただ、これには更なる精査が必要である。
 

尚、福井藩に招かれた越前康継(1554〜1621)も忘れることが出来ない人である。福井には幾人もの著名な鍛冶師が足跡を残した。
 
 鉄の歴史を持つ町は古い町が多く、その歴史をひもとくのは大変に興味深い。
 

 秋山徳蔵(1888〜1974)は越前市村国の裕福な家に生まれた。宮内庁の主厨長として大正、昭和天皇の食卓を統括し、西洋料理の普及にも大きな足跡を残した。戦後間もなく昭和天皇が武生に行幸された折には、ふるさと名物のおろしそばを差し出したところお代わりをされたという。

『天皇の料理番』(杉森久英、集英社文庫)                            
・・・・・篤蔵は鯖江の連隊で食べたカツレツという料理の味が忘れられなかった。もともと、武生は,食い物のうまいところである。福井県をひしゃくの形にたとえると、柄に当たるところが若狭で,胴に当たるところが越前になるが、その胴の真ん中にある武生は、すぐそばを日野川が流れていて,夏はこの川の鮎が日本一だと,町の人は信じている。その理由は,この川は九頭竜川の上流にあたり、春先に河口の三国港からさかのぼりはじめた鮎が,途中いろんな栄養をとって肥えふとり,福井を過ぎて武生のあたりへ来たころ、最高のコンディションになっているからだというのである。そのほか、海のものでは,若狭湾の小ダイ、グジ(甘ダイ)、ウニ、それに、越前ガニなど、うまいものがいろいろある。篤蔵は生まれつき健康で,食欲が旺盛なところへ、子供のころからこういうおいしい物をたべて、味覚を養っているので、八百勝へ養子に来ても,商売がおもしろくてたまらず、一日じゅう台所へ出て,魚を切ったり,野菜をきざんだり、煮たり焼いたりして、工夫をこらしていた。
 しかし、彼はこれまでカツレツほどおいしい物を食べたことがなかった。
 なんと香ばしい匂いだろう!天ぷらに似ているが、比較にならないほど濃厚で、強烈だ。
 豚肉の味もすばらしい。西洋料理というものは、みなあんなにとろりとして、こってりした味のものだろうか?
 これは新しい時代の味だ。料理の世界に新しい分野がひらけたのだ。
 これからは西洋料理の時代だ・・・・・

  大正11年12月、越前・竹神部落で竹細工に取り組んでいる21才の氏家喜助の元へ芦原温泉の遊郭に生きる玉枝という30歳位の美しい女性が訪ねてきた。ここから思わぬ数奇な話が始まる。美しく哀調をおびた展開は水上文学の真骨頂である。谷崎潤一郎に激賞され、1963年に発表されてから映画やテレビで放映された。当時から名産の越前竹人形があったわけではなく物語の殆どが水上勉の創作である。

 
『越前竹人形』(水上勉、新潮文庫)
・・・・・
 崎山忠平は、母屋(おもや)の前に立ったとき、胸がはずんだ。それは、四条縄手(なわて)の鮫島から、人形師氏家喜助の風貌をきいていた上に、さらに、この家には美貌の細君がいるときいてきたからにはかならない。忠平は精巧な竹人形の取引きにきた目的もあったのはたしかだが、人形師の細君をみるのもたのしみであった。忠平は鮫島に教えられたとおり先ず小舎(こや)をのぞいてみたが、うす暗いに小舎は人影がなかったので、母屋の戸をあけて声をかけた。 , ,
「ごめんやす」
中からかすかなしわぶきが一つきこえて女の応えがあった。やがて、床をふむ音がして、うす暗い屋内から、白い顔の背高い女がのぞいた。玉枝である。
 忠平は、どきりとした。こちらへ歩いてくる女をみたとたんに、思わず喉から驚愕の声が走った。
「そ、園子」
 と忠平は口ごもった。

・・・・・
 『越前の諸道』(司馬遼太郎、朝日文庫)                               
  ・・・・・製鉄が、火とかかわりがあったからだろうか。それともたたらふきは日(太陽)の神を信仰していたからだろうか。むろん、その証拠などない。むしろ中世以降の製鉄師(たたらし)がその高殿(たかどの、製鉄場)のなかで信仰していたのは太陽ではなく特殊な神であったことは、はっきりしている。
 その上、上代の言葉では、日と火は、発音のちがった別語であったとされている。(中略)
 そのように詮索してくると、まことに無意味な妄想になってくるが、
古代製鉄がさかえた地にヒノという地名があったり、ヒノ川が流れていたりするのは、偶然なのかどうか。
 古代製鉄の代表的な土地として出雲の国と伯耆(ほうき)の国がある。両国は相接しながら両国にヒノ川という同名の川がそれぞれ流れている。伯耆にあっては日野川であり、出雲においては、もっとも良質の鉄を出す鳥上山のあたりが『出雲国風土記』では「斐伊大河上(ひのかわかみ)」とよばれていた。斐伊は二字をもって「ひ」と訓ませていた。音は、日野川とかわらない。右は単に感想にすぎず、牽強附会(けんきょうふかい)すべきものではないが、武生を流れている日野川を見ると、つい出雲や伯耆の古代製鉄を連想せざるをえず、さらには、古墳時代に継体天皇を成立させるまでになった古代越前の旺盛な鉄製農具の生産と水田開拓の歴史をおもわざるをえない。・・・・・
 国安が刀鍛冶に使ったとされる千代鶴の池。1932年の池の改修工事では石の狛犬10個余りと刀剣1振りが見つかり、国安が刀剣一振り仕上げるごとに石の狛犬をこの池に納めたという伝承を裏付けた。越前市京町。 王子ケ池。勾大兄王子(まがりのおおえおうじ、継体天皇の第1王子で後の第27代安閑天皇,466〜536)と高田王子(継体天皇の第2王子で後の第28代宣化天皇、467〜539)の産湯に供したとされ、この付近7坪はかつて宮内庁用地、今は国有地となっている。粟田部(あわたべ)は継体天皇(男大迹王、おおどおう)は当地で二人の王子をもうけた。
ご案内地図案内
参考資料(花筐公園(かきょうこうえん)、福井県越前市粟田部町17−20、外部サイト)