鯖江市北陸一の古社・舟津神社 邪馬台国鯖江論 近松門左衛門有縁の地![]() |
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鯖江市は室町時代に開かれた誠照寺(じょうしょうじ、初めは真照寺と称した)の門前町であった鯖江荘が始まりで、300年程前は北国街道に沿った寒村だった。間部家の祖は間部詮房(まなべ あきふさ、1666〜1720)である。間部詮言(鯖江藩初代藩主、まなべあきとき、1690〜1724)は詮房の実の弟であったが詮房の養子となって間部家の家督を継いだ。1720年に越後(新潟県)村上からその間部詮言が5万石で入封して鯖江藩が成立した。 |
『街道をゆく 18越前の諸道』(司馬遼太郎、朝日文芸文庫) 鯖江などというのは五万石の城下町であることと、明治後、金沢の第九師団の隷下としての歩兵第三十六連隊のあった町としての認識しか私になかったが、近年、鯖江のパンがうまいという話をしばしばきくようになった。文化の肥えた地というのは、うまいパンをつくる才能を生むし、それを支持して育てるひとびとにも事欠かないのである。 ・・・・・ |
7代将軍・家継の生母月光院に仕えて権勢をふるった大奥年寄の絵島(1681〜1741、江島とも書く)は、1741年月光院の名代として前将軍・家宣の墓参のため奥女中らを連れて徳川家の菩提寺である寛永寺、増上寺へ詣でた。その帰り芝居小屋・山村座に立ち寄り帰城が遅れた事から山村座の役者・生島新五郎との密会を疑われた。拷問にもかけられたが自白せず、絵島生島事件として世間の大きな注目を集めた。幕政を握る学者・政治家 新井白石と側用人 間部詮房が二人で協同して、激しく対立する幕閣や譜代大名を相手に政権運営する一場面を描く。 『市塵』(しじん、藤沢周平、講談社文庫) ![]() ・・・・・ 社寺参詣の帰りに芝居見物に回り、そこで大奥の出入り商人の饗応で酒食を執ったり、役者遊びをたのしんだりするのは、大奥女中たちの半ば公然の息抜きだった。絵島だけが羽目をはずしたわけではなく、そういう意味ではたまたま咎められて処罰されたのは絵島たちの不運と見る者もいた。 ところが事件はそれで終ったのではなく、そこから異様な展開をみせることになったのである。 山村座をはじめ、江戸四座に町奉行の手が入り、生島新五郎、山村座の座付き狂言作者中村清五郎などがつぎつぎと牢に入れられ、取調べはさらに絵島を中心にする大奥の収賄関係の摘発にすすんで行った。その結果、絵島が再度罪に問われることになったのはもちろんのこと、絵島の兄白井平右衛門、弟豊島平八郎や関係役人、御用商人の後藤縫殿助、栂屋善六などを巻きこむ大裁判がはじまったのである。 「.....」 「耳にいたした限りでは、取調べの進行がまことに速い。かねてのもくろみがあったかのようだ」 「........」 このとき白石の頭に、萩原美雅が言った御目付衆の動きがあわただしいという言葉がちらと浮かんだ。あれはこのことだったのだろうかと思ったとき、間部が言った。 「こういうことを考え合わせると、むこうの真意もおよそは知れて来るというものだ」 「御生母さまの勢力を削ぐ、ということですか」 鍋松が将軍家継となるにしたがって、生母である月光院の大奥における勢力は肥大し、相対的に家宣御台所だった天英院、側室の法心院、蓮浄院らの権威は低下した。 そして力関係のその急激な変化は、大奥の中に月光院とその周囲に対する嫉視と憎しみを生み出したことを、むろん白石は承知していた。 月光院がもっとも信頼する年寄絵島を、法廷に引き出して罪人の極印を打つことが出来れば、それは月光院が誇る権力に対する一大打撃になるはずだった。 白石がそう言うと、間部はうなずいた。そして、低い声で狙われているのは御生母だけでなく、この間部、そしてそこもともだと言った。 ・・・・・・・・・・・・・・ ※絵島の墓所(蓮華寺、外部サイト)は1916年田山花袋が発見するまで忘れられていたが、その後、絵島を慕う歌舞伎関係者により整備された。 |
舟津神社(鯖江市舟津町1−3−5)は 『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう)に記載された式内社(しきないしゃ)。北陸一の古い歴史を持つ古社であり大彦命(おおひこのみこと)を祀る。中世には斯波氏や朝倉氏の崇敬を受けた。
『日本書紀』の崇神天皇(すじんてんのう)の条文には有名な四道将軍(しどうしょうぐん)派遣の記述が見られる。 しかし、古代史学者の直木孝次郎氏は「第10代崇神天皇の時代の大和朝廷は、近畿地方のわずか一部を掌握した程度の勢力に過ぎなかったのでその様な遠征軍を派遣する力はなかっただろう」と疑問を呈される。 尚、ずっと時代が下り658年(斉明天皇4年)には越国守・阿倍比羅夫(あべのひらふ、?〜?)は日本海沿岸を北上して北海道に到り蝦夷(えみし)や粛慎(みしはせ)を討ったとされる記録を残した。阿倍比羅夫は地図などなかった時代に、果敢に北上して北海道を越え樺太から奥尻まで遠征した。その後、662年中大兄皇子の命で百済救援のため朝鮮半島へ向かったが、663年新羅と唐の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。安倍氏は越の地方豪族とも、中央豪族の安倍氏の一支族が越に派遣されたとも言われる。 ところで、舟津神社や稲荷山鉄剣は大彦が実在したことを伝えている。大彦の実在に疑問を呈する人もいるが、大彦が実在しなかったならば人々は1000年以上にもわたって大彦を祀る舟津神社を崇拝しなかっただろうし、稲荷山鉄剣にそのような金象嵌文字を残さなかっただろう 。更に大彦が実在した人物とすれば、古代史学者が「欠史八代」の天皇として歴史から抹殺してしまっている大彦の弟の第9代開化天皇(大日日)も実在していたと考えることもできるだろう。舟津神社や稲荷山鉄剣は我が国の古代史研究に対して重要な問題を提起をしている。 |
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舟津神社(ふなつじんじゃ、祭神は大彦命)地図案内 | 樹齢250年の大ねじり柿 |
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舟津神社の背後には50基の古墳を持つ王山古墳群(おうざんこふんぐん)がある。山頂部に築かれた多くは方形周溝墓である。方形周溝墓は弥生時代後期(3世紀末)から古墳時代前期に築かれ、近年大阪で同じ時期の方形周溝墓の大規模な発掘が報告された。 |
王山古墳群 |