秀吉の養子(実際には人質)となった秀康を待っていたのは周囲の冷たい視線だった。ある日、秀康はとんでもない事件を起こしたが、それをきっかけに秀吉のもとで居場所を見つけ、勇猛果敢な秀康を秀吉は可愛がった。しかし、1589年秀吉に実子・鶴松が誕生すると一転して秀次(1595年7月秀次切腹、その幼児や妻妾達39人は8月に三条河原で公開処刑。瑞泉寺のサイト(外部サイト))ら他の養子と同様に秀康も不要になった。それは家康にとっては秀吉から秀康を取り返すチャンスであり、秀吉にとっては家来とは言え手強い家康に秀康をつけて関東へ追っ払い、関東開拓に莫大な金を使わせて没落させる好機だった。家康、秀吉、結城という三人の父を持った秀康の人生はこの世に生まれた時から波瀾に富んだ。
 
 福井県はNHK大河ドラマの誘致に熱心(外部サイト)だが
大河ドラマに推薦するなら激動の人生を送った秀康の方が断然面白い。

 
『越前宰相 秀康』 (梓澤 要、文藝春秋)      越前・若狭紀行
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 両者の距離はみるみる縮まった。
どちらが避けるか。相手はぎりぎりまで詰め寄って秀康と秋葉を怯えさせる気だ。避ければかさにかかっていたぶってくるだろう。
秀康は腰の佩刀を抜き払った。すれ違いざま、
「無礼者っ」
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「秀康、でかした。褒めてとらすぞ」
 一段と上機嫌の大声を張り上げて手を打った。
「この秀吉の子に向かって無礼せん奴ばらめ、その罪は死に当たる。あっばれ秀康、心剛なるのみならず、即座に成敗するは、早業も勝れおる証拠じゃ。まことにあっぱれなり。のう秀康、父は頼もしゅう思うぞ」
 秀康は耳を疑った。居合わせた者たちも皆、意外な展開に一様に顔を見合わせた。中には腹立たしげに舌打ちし、視線を合わせまいと下を向く者もいる。
「秀康、褒美をとらす。もっと近う、近う」
 にこにこ顔の秀吉は小姓に熊皮抛鞘(ながざや)の槍を持ってこさせて手ずから秀康に与え、さらに、向後、豊臣家の紋の使用を許すと明言した。
「皆の者、よう聞け。わが子秀康を侮るは関白への反逆、しかとそう心得よ。また此度のごとき不始末あらば、本人のみならず一族郎党ことごとく累罪といたす」
 ・・・・・秀康は長いこと大広間にひとり座りこんでいた。凍りついたままだった血がようやく溶け、全身を温めながら流れ始めていた。
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やっと自分の居場所が見つかった。関白の側がわしの在るべき場所だ。わしは関白の子なのだ。心底そう思えた。
 
 植松三十里は東京女子大学史学科卒の女性作家。女性作家特有の繊細な感性で人物心理を鋭く描く。『家康の子』は福井新聞で連載された。
 結城は宇都宮の近く、奥州に向かう入り口にある要地である。結城城主・結城晴朝(ゆうき はるとも、1534~1614)は徳川家康からの密使・本田作左衛門(1529~1596、通称は重次、激しい性格で鬼作左、長篠の戦いで「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」)を迎えていた。
  結城家へ秀康を婿入りさせて関東に拠点を造り、頑敵である北条氏討伐(1590年の小田原征伐)を目指す秀吉の腹案を結城晴朝に持ちかける緊迫した場面。※本多作左衛門の子が初代丸岡藩主・本多成重(なりしげ、仙千代、1572~1647) 

家康の子(植松三十里、中公文庫)                                  
・・・・・下克上の世になり、関東での合戦は勢いづくばかりだつた。特に小田原の北条家が力を持つようになり、甲斐からは武田信玄が進出し、越後の上杉謙信も関東管領の座を手に入れて、三つ巴の戦いとなった。
 武田家が滅びてからは、北条家と上杉家の対立が続いた。結城家をはじめ関東各地の城主たちは、時に北条に味方したり、時に上杉方についたりして、なんとか生き延びてきた。それが、ここに来て、まったく別の勢力が、手を伸ばし始めていた。それが豊臣秀吉であり、秀吉の先鋒として関東に攻め入ろうとしている、徳川家康だった。

 彼らに味方すべきかどうかが、晴朝の苦悩の種だった。目下のところ結城家は、北条に敵対する立場であり、それを貫くなら、当然、徳川に味方することになる。だが周囲の動きを見極めつつ、柔軟に判断しなければならない。
下手をすれば、四百年続く名家が、自分の代で潰れるのだ。

 本多作左衛門は広間で待っていた。そして晴朝が上座について、挨拶をすませるなり、予想通りの用件を切り出した。
「近いうちに、わが家中では、小田原城を攻めることになります。その時に是が非でも、お味方を、お願いしとうございます」
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 晴朝は、さらに慎重に聞いた。
「もしも徳川さまに、お味方するとしたら、こちらから人質を差し出さねばなりませぬな」
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 しかし作左衛門は意外なことを言った。
「人質など要りませぬ。むしろ、わが殿の子を養子として、貰っていただきたい」
 晴朝は驚いた。今までの話の流れは、ある程度、予想していた通りだった。だが家康の子を養子に迎えるなど、思いも及ばない話だ。
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晴朝は、なおさら仰天した。大大名の徳川家康の実子というだけでなく、関白豊臣家の養子でもある若者を貰うなど、にわかには信じがたい。
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「実質十万石は、お約束致しましょう」
 あまりな高に言葉を失った。
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「結城の家名は残るのでございましょうな」
「それは無論のこと」
 信じがたい好条件に、晴朝は黙り込んだ。その怪訝顔に気づいて、作左衛門が言った。
「何もかも腹を割って、お話ししましょう。実は、
わが殿は、今度の北条攻めが終われば、関白さまから、関東への移封を命じられるだろうと、覚悟しておいでです」
 
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