中野重治生家跡 中野家墓所             越前・若狭紀行
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 中野重治は(なかのしげはる、1902〜1979)福井県坂井郡高椋村(現在の福井県坂井市丸岡町)一本田に生まれた。小説家、詩人、評論家であるが参議院議員も務めた。「五勺の酒」では天皇制と天皇の問題を追求した。野間文芸賞を受賞した「甲乙丙丁」は政治と文学の問題を追究した。1979年に胆嚢癌で77歳にわたる生涯を閉じた。1980年彼の遺志により生家跡が丸岡町に寄贈され、東京都世田谷からは書斎が移築された。また毎年8月に開催される『くちなし忌』には全国から中野重治に思いを抱くファンが集まり彼を偲ぶ。
   
中野重治生家跡  世田谷区から移築された重治の書斎 
幸多き人生とは言えず1958年に先立った妹・中野鈴子の石碑。「花も私を知らない」と刻銘されている。鈴子の死に際しては室生犀星が「春立つと こがらしに 君先立ちぬ」と追悼した。 中野重治生家跡の200m程東にある中野家墓所。9月末、彼岸花で真っ赤に染まる。この土地はかつて秀吉の検地に際して中野家先祖の接待に対して授与されたと伝えられ、重治もこの地にねむる。
  『梨の花』(中野重治、筑摩書房)                                                            

 ・・・・・正月は、朝から晩まで吹雪いてるのだ。それが正月だ。吹雪いていなくても、野も、山も、道も、学校の運動場も、雪でいっぱいになっている。雪の深い年には、軒まで雪がきている。雪がそれほどでなくて、ちらりと陽がさしてでもくれは、良平らは「ごんぽこぎ」に行く。ごんぼ畑へ行って、ごんばを抜くまねなのだろう。なんで「ごんぽこぎ」というのか誰も知ってはいない。
「ごんぽこぎに行こうさあ……」
「ごんぽこぎかあ……」
 しりごみするものがあってもかまわない。しりごみしたものも、結局は尻からげする。股引きを股のつけ根まで捲きあげる。そしてはだしになって、どこかそのへんの畑へとびだして行く。雪のうわ面ががちがちになっているときは、皮膚が切れるように痛むが、傷がついて血が出ることは絶対にない。つめたいから、みんな一散に走る。そしてひとまわりして一散に帰ってくる。それだけだ。それで楽しい。足くびから股まで赤くなっている。濡れたのを手ぬぐいでふいて、そこで何となくお互いに顔見あわせてにやりとする。
 ある日、それがいつのことだったか良平にも覚えがないが、とにかくまだ学校へはいらぬ前だった。日のあたる外から良平が帰ってきた。三日ばかり珍しく天気つづきで、屋根の雪がゆるんでいる。してみると、三月にもなっていただろうか。軒したは、夏なら雨垂れのおちる雨垂れ落ちのところへ、屋根から落ちた「ずり」雪が堤防をついたようになっている。玄関正面のところだけそれが切りさいてある。そこから良平が玄関へはいろうとした。軒端まできていた屋根の雪に良平は気づかなかった。
 良平がそこをはいるときそれが落ちた。
 良平は 「あっ……」といったと自分で思った?ほんとはわからない。「あっ・‥…」といって、半分それが雪のなかからだったような気もする。それは今思い出してそんな気がするが、そのときどうだったかはわからない。
 掘り出されたとき、掘りだしたおばばは、おじさんといっしょに、三人でげたげた大笑いしたのを覚えている。なんであんなに大笑いしたのか、それもわからない。「うっ……」と息がつまって、じき掘りだされたのだったろう。「ずり」 に埋まったとき、雪のなかが明るかったように思うが、これもわからない。なにせ、正月は雪のなかだ。雪の底だ。
 吹雪くとなればそれ以上だ。この冬、ある朝、良平が寝坊をして、学校をおくれた。お寺の御拝まで行ったが、もう誰もいない。
「もうじき、二年生じゃぞ。」
 こう思って良平は歩きだした。学校ぐらい、ひとりで行ける。良平は林の石垣の出はずれのとこまで行った。往還みちがずっと続いている。そのずっと向うに、「松の木ざんまい」の松の木が見える。それからもうすこし向うに、学校の建ちもんが見える。村の子供たちが、隊を組んで應んで行った深靴(わらぐつ)の跡がある。この深靴の跡をふんで行けばあの学校の建ちもんへ行くはずだ。
 良平が二十間ばかし行って、村はずれの橋を渡ろうとしたときに「ふうううっ……」と吹雪がきた。風と雪がきた。

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