植山古墳は推古天皇陵!! ![]() |
継体天皇の孫になる推古天皇(554〜628年)は日本最初の女帝であり、甥の聖徳太子や叔父の蘇我馬子らの力も得て仏教を中心にした治世を行い冠位十二階の制定、遣隋使、17条憲法を制定するなど飛鳥時代に活躍した人である。 2000年5月区画整理事業に伴って植山古墳(奈良県橿原市五条野町)を調査中に推古天皇と長男・竹田皇子のものと思われる墳墓が発見された。 東石室からは石棺が発見されたのに西石室では見つからなかったのは、その後、推古天皇が河内に改葬されたためであろう(下右の写真)。西石室(推古天皇)は全長13mで、棺を置く玄室(げんしつ)と通路の間に扉を支える直径20cmの穴がある閾石(しきみいし)が配置されている。 この時代、何人かの女性が天皇に即位しているのは前天皇が亡くなった時にその皇后が若い皇子に代わって即位したためと考えられている。しかし、推古天皇は一時的な繋ぎではなくこの激動の時代にあって在位期間が歴代天皇の中でも上位となる36年の長きにわたり、この間に大和朝廷は飛躍的に発展した。 推古天皇は臨終の間際に「この大飢饉で民衆が飢えている時に決して我が為に陵(みさぎ)を築いてはなりません。先に亡くなった我が子・竹田皇子と合葬すればそれで良いのです」と遺言したと日本書紀は伝える。 写真集へ |
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西石室(推古天皇 ) | 東石室(竹田皇子) | 改葬された推古天皇陵(方墳、大阪府太子町) |
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植山古墳から西を望むと、右手向こうに見えるのが橿原神宮と神武天皇陵のある畝傍山(うねびやま)。左手はるか向こうに見えるのが有能な故に謀反の罪で粛清された悲劇の王子・大津皇子が葬られている二上山。 |
植山古墳から西に二上山を望む (2000年8月26日(土)) |