高野山     奥の院    20万基の墓と巨木   次のペ−ジへ  TOPへ戻る
   
 御廟橋(ごびょうばし)を渡った正面は弘法大師が今も修行されているという奥の院。835年(承和2年)3月21日に永遠の禅定に入った弘法大師が今も現世の人々の悩みや苦しみや願いを聞き入れて下さる、という大師信仰が息づく。
  高野山は今も御廟にて修行を続け現世の人々を温かく見守られている弘法大師に毎日朝6時、10時30分に食事を供える。調理された料理は生身共(しょうじんく)と呼ばれ味見地蔵(嘗試地蔵、あじみじぞう)に供えてから大師の御廟へ届けられる。朝食はご飯と一汁二菜、昼食はご飯と一汁三菜にデザ−トやコ−ヒ−という。
 
 石田三成墓所と明智光秀墓所  入り口の一の橋から御廟まで2kmに及ぶ参道沿いには時代、宗派、身分を越えて戦国大名や歴史上の人物の墓が並び、林立する巨木は幾百年の時間の経過を感じさせる。
   
織田信長墓所 豊臣家墓所 
 
  松平秀康(まつだいら ひでやす) 及び 同母霊屋(どうぼたまや)
 
左側の霊屋は秀康が母(家康の側室・お万の方、長勝院)を祀るために1604年(慶長9年)建立し、右側は1607年第2代藩主・松平忠直が初代藩主・秀康を祀るために建立した。柱や棟木(むなき)など殆どが石造りの建造物で重要文化財に指定されている。福井産の笏谷石を使われ、手前には巨大な切り株が残る。
 徳川家康の二男・秀康(ひでやす、1574〜1607)は家康に冷遇されて豊臣秀吉の養子(人質でもあった)となった時(1584年)には羽柴秀康を名乗ったが、秀吉に鶴松が誕生すると(1589年)豊臣家に秀康は不要となり、その後は結城晴朝(ゆうきはるとも)の娘婿となり結城秀康を名乗った(1590年)。江戸時代になって北ノ庄藩(その後、福井藩と改名)の藩祖に立つと再び松平姓に戻った。秀康は生涯に徳川、豊臣、結城と三人の父を持つ波乱の一生を送った。居城は現在の福井県庁の所に置かれ当時68万石を領有した。これは、119万石余の前田利長に次ぐもので65万石の豊臣秀頼をしのいだ。参考サイト
   
武田信玄 勝頼墓所   
   
 弘法大師腰掛け石 周囲の山々が台風などの強風を遮ったので 巨大な墓石よりもはるかに大きな巨木が育った。
 
浄土宗元祖 法然上人墓所  備後福山藩水野家墓所の鳥居を凌駕する巨木 
 
芭蕉句碑  ちちははのしきりにこいし雉の声  慈眼堂河野宗寛老師歌碑