新田義貞公墓所 称念寺(時宗)越前・若狭紀行
TOPへ

  新田義貞(にったよしさだ、1301〜1338)は1333年鎌倉幕府を滅ぼした武将である。後醍醐天皇に従い、朝廷主導の政治を復活させようとする建武の新政で重用された。その後、足利尊氏が新政に反旗を翻すと義貞は南朝方の主力となって各地で戦った。尊氏が京都を占領すると金ケ崎城(福井県敦賀市)に立てこもって対峙したが落城前に再挙をはかって脱出し、北朝方の斯波高経(しばたかつね)と灯明寺畷(とうみょうじなわて、福井市)で戦い、悲運の死を遂げた。敵将の斯波高経は義貞の遺骸を称念寺(しょうねんじ)に埋葬した。   地図案内 

関連の内部サイト
新田塚  
新田義貞公墓所がある称念寺(しょうねんじ)   近衛中将新田義貞公贈位碑。福井大地震(1948年)で上部が壊れたままになっている。
この唐門の奥に義貞の墓所がある。 2.6m余の新田義貞の五輪石塔。この下に義貞の旧墓石が眠る。
  『新田義貞公と称念寺』      
「称念寺は時宗の長崎道場と呼ばれ、正応3年(1290)時宗二代目真教上人を、当時の称念房がしたって建物を寄進しました。
 南北朝の騒乱の時代、新田義貞公は南朝方として戦いましたが、歴応元年(1388)に灯明寺畷の戦いで戦死しました。その遺骸は時宗の僧八人に担がれて、称念寺に手厚く葬られた事が太平記に記録されています。
 室町将軍家は、長禄2年(1458)安堵状と寺領を寄進し、将軍家の祈祷所として栄えました。そして、寛正6年(1465)に後花園天皇の綸旨(りんじ)を受け祈願所となりました。さらに後奈良天皇の頃には、住職が上人号を勅許されるなど、着々と寺格を高めていきました。
 永禄5年(1562)には浪人中の明智光秀公が称念寺を訪ね、門前に寺子屋を立て生活しました。
江戸時代の松尾芭蕉は称念寺を訪ね、その頃の光秀夫婦を『月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ』と詠んでいます。
 徳川将軍家は新田氏が先祖にあたるということで、その菩提所を大切にしました。しかし、明治の版籍奉還により、寺領が没収され、無檀家になり称念寺は無住になりました。新田義貞公や称念寺の歴史を惜しむ人々が力を合わせて、大正13年(1924)にようやく再建しました。
 ところが、昭和23年6月28日にこの地方を襲った福井大地震により、再び称念寺は壊滅的な打撃を受けました。檀家がないため、一時は存続すら危ぶまれましたが、多くの人々の協力により復興ができました。」
  (以上は、称念寺の由緒書き
 『国盗り物語 (司馬遼太郎、新潮文庫)                     
・・・・・
 一乗谷そのものには知る辺(べ)がなかったが、そこから二十キロ北方に長崎(現福井県坂井市丸岡町)という部落があり、そこに称念寺という時宗の大寺がある。
 そこに光秀は、いったん草鞋(わらじ)をぬいだ。この寺はかつて偶然の縁で知り合った禅道という僧が紹介してくれたもので、その紹介状に、
「明智十兵衛、美濃の貴種なり」
という言葉があったため、称念寺でも粗略にはあつかわなかった。
 称念寺の住持は一念という。 一念は一乗谷の高級官僚のあいだに知人も多く、当主義景にもしばしばまねかれてお咄(とぎ)の座に侍している。
「越前での御希望はなんでござろう。お力になれるならば、なってさしあげたい」
と、対面そうそう、光秀のよき後楯になることを約してくれた。 一念はおそらく、光秀のもっている貴族的な風貌(ふうぼう)、作法にかなったふるまい、それに卓抜した教養に惚れこんだものであろう。
「御仕官がおのぞみでござるのなら、橋渡しもつかまつろう」
「左様さな」
 まさか、空席になっている宗滴のあとがまにすわりたい、とはいえない。
「かようなことを申しては、 一介の素牢人がなにをほざくとお笑いでありましょうが、しばらく一乗谷城下に住み、朝倉家の人士ともつきあい、御当家の情勢も見、はたして光秀が生涯を託することができるか家かをトクと見さだめてから、身のふりかたをきめとうござる」

・・・・・