燈明寺畷新田義貞戦没伝説  地図案内 越前・若狭紀行
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  『太平記』の主な舞台は京都と鎌倉であるが福井の舞台も幾つか描かれている。覇権を争った足利と新田は共に源義家(八幡太郎、1039〜1106)の後裔であり清和天皇に遡る。足利尊氏は、源氏が実朝で断絶したので源氏嫡流に近い立場だったが北条体制下では幕府の一御家人として臣従を強いられた。新田義貞(にったよしさだ、1301〜1338)も鎌倉幕府ご御家人の地位にはあったが幕府に不満を持っており、幕府の執政にはほころびが目立ち始めていた。1333年5月22日義貞は天然の要害である稲村ヶ崎から鎌倉へ突入し幕府の執権・北条高時一族を菩提寺の東勝寺で自害させついに鎌倉幕府を滅亡させた。鎌倉での北条一族・一門、武士達の死者は数千人と言われ、昭和になってからも多くの人骨が見つかった。
 
後醍醐天皇(1288〜1339)の呼びかけにより義貞が1333年5月8日、わずか150騎で生品明神(いくしなじんじゃ、群馬県太田市)で挙兵してからわずか15日後であった。
 
倒幕、後醍醐天皇の親政が始まったが多くの困難が立ちふさがった。命をかけて戦ってきた武士達への恩賞は少なく、天皇の近くの人達が優先的に多くの恩賞を受けた。後醍醐政権内に政治の分かる者はいなかった。足利高氏(天皇の名・尊治(たかはる)から一字もらって尊氏)は早々と離反。そして、尊氏はそれらの不平武士を背景にして光明天皇(こうみょうてんのう、北朝)を擁立、室町幕府を開いた。一方の後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝をたて、京都の六波羅探題を攻め落とした尊氏側(北朝)と対立することとなった。

 義貞は矢作川(愛知県刈谷市)、京都、湊川(神戸市)、金ヶ崎城(福井県敦賀市)、杣山城(福井県南越前町)などで激戦を繰り返し、一時、尊氏を西国へ敗走させる勢いであった。しかし、武士への恩賞を忘れた後醍醐天皇側は劣勢であった。高師泰・斯波高経らに包囲された金ヶ崎城は1337年3月6日落城。義貞らは杣山城に逃れたが後醍醐天皇の皇子である尊良親王(たかよししんのう、たかながしんのうとも言う、1311〜1337)は自害、恒良親王(つねよししんのう、つねながしんのうとも言う、1324〜1338)は京へ送られ毒殺されたとされる。鯖江、越前府中でも戦いを繰り返したが、翌1338年7月2日、越前藤島の燈明寺畷(福井市新田塚)で悲運の死を遂げ
遺骸は称念寺(福井県坂井市丸岡町)に、首級は京都に送られた。
 
鎌倉幕府を倒すという大手柄をたてながらも悲運に倒れた武将・義貞の幾たびもの奮戦の様子は、連れ添った最愛の匂当内侍(こうとうのないし)の悲話と共に『太平記』に描かれている。

 1656年、この地で耕作していた百姓・嘉兵衛が偶然に銀象眼された冑(かぶと)を見つけた。福井藩の鑑定の結果、新田義貞が着用した物とされて
新田家の後裔に当たる福井藩第4代藩主・松平光通の時に松平家の家宝として丁重に保管され、現在は藤島神社(外部サイト)の宝物となっている。尚、この付近は「新田塚」と言われる。            
 徳川氏・松平氏は源氏や天皇家に結び付く次のような系図を好んだ。現代の史家からは、世良田有親(せらだ ありちか、?〜1441?とも1452?とも)やその子・松平親氏(ちかうじ、?〜1467?等)は新田氏の後裔で、故郷の上野(こうずけ)国(群馬県)新田庄得(徳)川村から時宗の僧になって諸国を巡って三河国の碧海(あおみ)郡に流れて、初めは酒井氏、次に松平信重の娘婿になって住み着いたというのは史実性に乏しい、泰親(親氏の子とも弟とも?、?〜1436?とも1472?とも)以前ははなはだ不確実(辻達也)、など様々に指摘される。

 この頃は系図どころか戦いに明け暮れていた時代、大名から農民に至るまで明日の命が分からなかった。天下人がこれが当家の系図だと言えば異論を唱える者などいるわけがない。細かな考察は他書に譲る。『日本人名大辞典』(講談社)準拠
国指定史跡 燈明寺畷新田義貞戦没伝説地 

 「江戸時代の明暦2年(1656)に、この周辺で地元の農民が、南北朝時代の武将、新田義貞のものといわれる冑(かぶと、元応元年:1319年の年号が記されている)を発見しました。
 その後、福井藩第4代藩主松平光通(まつだいらみつみち)が万治3年(1660)に「歴翁元年閏七月二日新田義貞戦死此場所」の碑をここに建てて以来、この場所が「新田塚」といわれるようになりました。
 この地は、大正13年(1924)に国の史跡に指定されました。また、冑は明治33年(1900)に国宝に指定され、その後、国の重要文化財(工芸品)に指定されました。
 新田義貞は、正安3年(1301)に上野(こうづけの)国(群馬県)で生まれました。義貞は、後醍醐天皇の呼びかけにこたえ、鎌倉幕府討伐のため挙兵し、関東から東海・関西と転戦した後、金ヶ崎城(敦賀市)に入りました。金ヶ崎城は、建武4年/延元2年(1337)に一度は落城しましたが、その後、義貞が奪還します。翌年、義貞は歴応元年/延元3年(1338)に藤島城に応援に向かうところで敵と遭遇し、矢に射られ戦死したといわれています。
 義貞の遺体は、坂井市丸岡町長崎の「称念寺(しょうねんじ)に運ばれ、現在、境内に墓所があります。これらの戦いの経緯などは「太平記」に記されています。また、出土した冑は、福井市毛矢3丁目の新田一族を祀る藤島神社が所蔵しています。」 (現地説明板)

 

 『義貞の旗』(安部龍太郎、集英社
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金ケ崎城は聞きしに勝る要害だった。
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 義貞は幕府方としてこの城を攻め、さんざん苦労した経験があるので、あの時のことを思い出しながら城の強化を進めたのだった。
 長い籠城戦になれば、必ず兵糧と薪が不足する。
 そこで方々に兵を走らせてできるだけ多く買い付けると同時に、対岸の半島の数力所に隠し砦をきずき、海から物資を補給できるようにした。
 船が着けるように本丸の北側に船入りをもうけ、道を作って物資を運び込めるようにした。
 敵に包囲された場合、この船入りが城外との連絡に使える唯一の通路になるはずだった。
「この城に敵の大軍を長々と引きつけておけば、身方は各地で兵を挙げやすくなる。来春になって雪が解ければ、越後の軍勢も馳せ参じよう」
 越後一国ではいまだに新田一門の勢力が強い。彼らが来援するまで持ちこたえられるかどうかが勝敗の分かれ目だった。
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『新田義貞』(新田次郎、新潮文庫)                     
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  馬に乗った義貞の姿が急に小さくなった。もう矢は届かないだろうと誰もが思った時だった。一本の流れ矢が、義貞の乗っている馬の尻に当った。馬は棒立ちになり、義貞は兜をかぶったまま水田に落ちた。彼は泥にはまった兜は捨て、その下にかぶっていた烏帽子(えぼし)のまま泥田から立ち上った。無防備の義貞を守るために走り集って来た人垣が周囲に立った。そのまま人垣は畦道を北上しようとした。義貞が馬から落ちている間に敵軍は間近に迫った。斯波高経の軍が前に立ちふさがった。神宮、竹内、植杉、浜名等の里見衆が義貞の盾となって死んだ。龍杏、龍石、龍玄が義貞の身を守った。龍玄が倒れ、続いて龍石が膝をついた。そして龍杏が義貞の前に立とうとしたとき三本の矢が同時に飛んで来て二本は龍杏に当り、 一本は義貞の眉間に当った。
 義貞はその瞬間眉間に石が当った痛さを感じた。里見で少年たちと石合戦をしている自分を意識していた。目から火が出て、気が遠くなる。しかし、やがて意識は恢復するのだ。最期に彼の脳裏をちらつと走った幻想であった。
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 『太平記』(新潮社)    義貞自害の事

  ・・・・・わずかに五十余時の手勢を従えて、藤島の城へぞ向はれける。その時、黒丸城より、細川出羽守と鹿草(かくさ)彦太郎両大将が、藤島城を攻める寄手どもを追ひ払はんとて三百余騎の軍勢にてあぜ道を回りける時に、義貞勢と真っ向から行き合ひたまふ。細川が方には、徒歩で楯を持った射手ども多く、泥田に走り下り、前に持楯を並べて、その隙間から散々に射る。
 義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一枚も持っていなかったので、前なる兵は義貞の矢面に立って、ただ的になつてぞ射られける。

義貞と隔てて戦ひける結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、馬より飛び下り、義貞の死骸の前にひざまづいて、腹かき切つて重なり臥す。この外、四十余騎の兵、射落されてたが、敵のひとりをも取りえずに、犬死して臥したりけれ。

 戦いが終わって後、氏家中務丞、高経殿の前に参つて、「この重国が、新田殿の御一族かと思われる敵を討ちて首を取つて候へ。だれとは名のり候はねば、名字は分からぬが、馬・物具の様子や従ひし兵どもの、死骸を見て腹をきり討死する様子は、普通の武士にはあらじと思う。これぞその死人のはだに懸けてあったお守りにございます」とて、血をもいまだあらはぬ首に、土が付いた金らんのお守りを添へて出だしたりける。尾張守この首をよくよく見たまひて、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所あるぞや。もしそれならば、左の眉の上に、矢の傷あるべし」とて、みづから櫛を以つて、髪をかきあげ血をすすぎ、土をあらひ落してこれを見たまふに、はたして左の眉の上に傷の跡あり。ますます思い当たることがあって、帯(は)かれたる二振りの太刀を取り寄せて見たまふに、金銀を延べて作りたるに、一振りには銀を以つて鬼切と言ふ文字を彫り込んである。もう一振りには金をもって鬼丸と言ふ文字を入れられたり。これはともに源氏代々の重宝にて、義貞の方に伝へたりと聞いているので、末々の者どもの帯くべき太刀にはあらずと見るに、いよいよ怪しければ、はだに付けたお守りを開いて見たまふに、吉野の帝の御宸筆(ごしんぴつ)で、「朝敵征伐の事、叡慮の向ふ所、ひとへに義貞の武功に在り、選んでいまだ他を求めず、ことに早速の計略をめぐらすべきものなり」とあそばされたり。「さては義貞の首に、相違なかりけり」とて、死骸を輿に乗せ、時衆八人にかつがせて、葬礼のために往生院(現・坂井市称念寺)へ送り、首をば朱の唐櫃(からふと)に入れ、氏家中務を添へて、ひそかに京都へ上せられけり。・・・・・